500日のサマー
500日のサマーは2009年のアメリカ映画。監督はマーク・ウェブ。
ミュージックビデオで有名な監督の長編映画デビュー作。
ノリの良い音楽とライトで誰にでも入り込みやすい恋愛が多くの人を惹きつけたヒット作。日本での人気もとても高いわ。
映画の最初にあるように、ロマンティックな恋の偶然を探す男女が出会うボーイミーツガールのお話だけど、これはロマンティックな恋のお話ではなく、「恋愛観」のお話。
最初の仕掛けは、サマーとトムの出会いが、ロマンティックなものだと見せかけて、実はトムがサマーを気にするようになったのが白いシャツからチラリと覗く胸元であること。
本当にさりげないカメラワークだから女性だと気がつかないかもしれないわ。
そう、この映画の最大の仕掛けは、男女の感想が全然違うこと。
(後で喧嘩にならないなら)ステディと一緒に見るのにもってこいな映画な。
互いの思う「ロマンティックな恋」通りにいかないと摩擦が起きる男女あるあるが延々繰り広げられてもやもやするわ。
傷ついてもすぐに仲直りのキスで元通り。の繰り返し。
そして、
「もしかしてこれは相手のことが好きなのではなくて、恋をしている時のキラキラした気持ちが忘れられないだけなのでは。」
と気づいても、恋愛は一度はまると抜けられない中毒のようなもの。
そして恋で負った傷は恋でしか癒えなかったりするから人間は何歳になってもすったもんだを繰り返すのかもね…。
そんな哲学を踏まえると、最後のシーンでのトムの行動は実に清々しいわ。
家族ゲーム
「家族ゲーム」は1983年に公開された松田優作主演の映画。
監督、脚本は森田芳光。
原作は1981年に出版された同名小説で、この映画の前にテレビドラマも作られ、映画の後も2回リメイクされているわ。
次男の受験勉強でピリピリした空気漂う沼田家に松田優作演じる大学7年生の家庭教師が訪ねてくるストーリー。
題材の1つとして挙げられる、神奈川県の少年金属バット両親殺人事件。劇中に2回「バット殺人」という言葉が登場して、当時この事件がセンセーショナルだった事、事件後の親は子供の暴走に怯え、子供はお受験ブームに疲れていた背景が見えてくる。
「家族ゲーム」というタイトルは、当時大ブームだったファミコンを想起させるもの。
キャッチーながら映画のシニカルさが際立つ良いタイトルね。
主人公が憧れる大阪万博のジェットコースターやチョイ役のアイドルなど、俯瞰して描かれる時代感に独特の味があるわ。
もっとも注目すべきは家族の描写。
家族の実在感を浮き立たせるのに、「その家族独特のルール」を作ることはポピュラーな方法。これに加えて舞台装置としての役割も発揮した、スライド式お惣菜テーブルは森田監督ピカイチの発明。
さらに、松田優作が加わると、なぜか最後の晩餐の構図に。
映画はときに「時代の総括」としての役割を果たす。これはまさにそんな作品ね。
背景に度々出てくる大規模な開発工事が行われる港からもわかるように、建設と破壊の時代であること。そして、それが発する音の不安感。
ヘリコプターの破壊音のような響きは、どこまでも平坦な「ホームドラマ」の終わりを暗示しているんじゃないかな。
AKIRA
1982年、世界大戦で新型爆弾「AKIRA」が炸裂したことにより東京は崩壊し、新首都「ネオ東京」を東京湾上に再建した。
2019年、ネオ東京は2020年にオリンピックを控えるもの、財政難による政府への反発からクーデターやテロが相次ぐ殺伐とした都市になっていた。
そんな街で暮らす暴走族リーダー格の少年・金田は、仲間たちとクーデターのどさくさに紛れ、いつものように禁止区域である、旧都市街を疾走していたが、先の大戦の爆心地付近で白髪の少年に遭遇し、不思議な力を目の当たりにする。
勢いあまって少年と衝突しそうになった、仲間の鉄雄に少年は手を触れずに重傷を負わせ、消えていった。
不思議な力に触れたため、自らも超能力に目覚めかけた鉄雄は、ラボに入院させられ、能力を増強させるための薬物を投与され、やがて制御できないほどの凶暴な力を得る。
力を得てから、悪夢でアキラの声を聞くようになった鉄雄は、アキラに興味を示し、重要国家機密である「AKIRA」と夢に現れる少年・アキラの謎を暴こうとする。
2020年のオリンピックまでに絶対に見ておきたい映画の1位は間違いなくコレ!
厳密には2019年くらいまでには見ておきたい映画だから観るなら今よ。
原作者自らが監督・脚本を手掛けている稀有な作品。
私は劇場版を見てから漫画を読んだけど、ストーリーが少しずつ違っていて、どちらが先でも楽しめると思うわ。
世紀末モノだけに、暴力の描写が多いから苦手な人は気を付けて!
ここまで書くとわりとアクの強い作品だけど、アニメ映画のクオリティとしてはとにかく最高!
動画としての作りこみが別格すぎて、アニメであることを疑いたくなるレベル。しかもすべてセル画だというから驚きだわ。
まず見てもらいたいのが人物の口の動き。「あいうえお」の口の動きをセリフに合わせて描き分けてるから、本当に喋っているみたいに見える。
何百という人を俯瞰で描きエキストラのように動くシーンも圧巻。
製作費がアニメとしては脅威とと言える10億円だというのも納得。手描きということをとっても、おそらくもう作ることのできない贅沢なアニメ映画ね。
世界大戦に大量殺戮兵器と、規模の大きな作品に見えるけど、描かれるのは東京の一部だけ。
にもかかわらず、首都が崩壊していると世界が終わるように見えるのは日本独特の感覚かもしれないわね。
邦画洋画問わず、世紀末モノで「一方ブルックリンは・・・」的な描き方はよく見られるもの。だけど、なぜか日本の映画だとリアリティや危機感を逆に損なうことが多いように思うのは、
もしかしたら、日本という国が、問題が起きると外部の情報が入って来づらくなるということを私たちは実はよく知っているからかもしれない。
問題が内部で泥沼化して行くのをただ見ているだけの絶望感。
震災後に見るとそういったことが、より鮮明にリアルに感じられて、当時の歯痒さを思い出してしまったり。
AKIRAはSF作品だけれど、現在進行形の日本の「ヤバさ」がてんこ盛り。
そして、そのヤバさが製作当時から脈々と受け継がれ、2020年の東京オリンピックまで現実のものになろうとしているのがなによりヤバイ。
今も東京オリンピックは問題だらけだし、オリンピックに向けてだんだん貧しくなっているところは世の中にたくさんある。
にもかかわらず、映画を観てから、以前よりオリンピックが楽しみな私もいるから不思議。
アキラの爆発は奇しくも美しい日の丸を描き、都市の再生を思わせるエンディングには憧憬を抱く。
「皆、ぶっ壊してくれるなら誰でも良かったんだ。」
作品を象徴するから有名なセリフね。
まさに破壊は私たち一人一人の内側から始まっていることを自覚するわ。
勝手にしやがれ
ジャン・リュック・ゴダール監督、フランソワ・トリュフォー原案のフランス映画。
モノクロの作品で、初期のヌーベルバーグを代表する作品よ。
ボギーに憧れるけどどこか情けないフランス人の青年・ミシェルと、奔放なアメリカ人の女の子・パトリシアの恋のお話。
盗んだ車を転売してその日暮らしの生活をしているミシェルは、マルセイユで盗難車を運転しているところを追いかけてきた警官を射殺してしまう。
ミシェルはひとまずパリへ逃亡し、貸しになっていた金を得ようとするが、現金で受け取るにはベリユッティという男に会わねばならないことになる。
ベリユッティを探しつつ、南仏で恋に落ちたパトリシアに会い、一緒にイタリアへ逃げようと持ち掛ける。
パトリシアはミシェルに殺人の容疑をかけられていることを知っても、彼と気ままにデートを重ね、逃亡にも乗り気でついてくる。しかし、途中で心変わりをしたパトリシアは彼の居所を警察に密告してしまう。
マニアックなイメージの強いゴダールだけど、その中でも知名度の高い作品よ。
ヒロインのパトリシアはこの映画を知らなくても雑誌で見たことがある人もいるのでは?
女性らしさと潔さの絶妙なバランスのファッションが個性的でとってもオシャレでかわいい。パリの街並みを颯爽と歩く姿に憧れちゃうわね。
ヌーベルバーグの特徴とも言える街中でのゲリラ撮影で、当時のリアルなパリの風景が見られるのも貴重。たくさんのクラシックカーが並んだ街を私も歩いてみたかった!
恋に暴力に逃走劇と、結構いろいろなことが起こるにも関わらず、全編にひっそりとした退屈さのある不思議な作品。
冒頭、カメラ目線のミシェルから飛びだす謎のパンチライン、
「海が嫌いなら、山が嫌いなら、街が嫌いなら、勝手にしやがれ!」
わかるようなわからないような言葉だけど、これが結局すべてを説明しているのかもしれないような気もする。
パトリシアが最も望む、自由を得るとセットでついてくる退屈。そしてその退屈を手放すために人は恋をしてまた不自由を得る。
自由に縛られるくらいなら、恋をしていたほうがまだまし。
ミシェルに乾杯!
ノルウェイの森
2010年/監督・脚本トラン・アン・ユン
ノルウェイの森 は村上春樹原作の同名小説をトラン・アン・ユン監督で映画化した作品。
1970年代の学生運動が盛んな時代の大学生である主人公・ワタナベは、高校時代に親友・キズキを亡くしてから心に漠然とした不安と空虚さを抱えながら生きている。
複数の女の子と夜を共にしても埋められない心。
しかし、キズキの恋人であった直子と再会し、同じ空虚さを抱えた者同士次第に惹かれあう。
80年代を代表する大ヒット青春小説が20年以上経ってからの映画化ということで、上映前から話題になっていたのを覚えているわ。
物語の舞台である70年代の風俗がキッチュにデフォルメされていて懐かしいながらも若者の目には新鮮で視覚的にかなり成功しているわね。
水原希子ちゃんの出世作なだけあって、お人形さんみたいな容姿に芯の強い演技がとっても魅力的。70年代のカラフルなファッションも似合っていて真似したくなる!
水原希子扮するミドリは「愛」についてこう語るわ。
「私がケーキが食べたいなあと言ったらあなたは走ってケーキを買ってきてくれるの。それで、息を切らして私にケーキを差し出すんだけど、私はもうケーキなんていらない!と言ったらあなたはじゃあ何が食べたい?何でも買ってくるよ。っていうのよ。」
それが愛!だそうです!
とんでもない愛観だけど、水原希子さんにこう言われたら確かにケーキを買いに行きたくなるかもしれない…。
そんな緑とは対照的な、直子役・菊地凛子さんの闇を抱えた演技も見もの。
呼吸の仕方ひとつをとっても、病んでいる女性と接したことのある人なら絶対にそわそわしちゃう名演技。
他に特筆すべき点はカメラワークと劇中の音楽。
鳥の視点のように動き続けるカメラワークは絶妙な速度で心地良い。
そこに乗る当時の良質な音楽の数々もしっかりと聴けるのが魅力。2回目以降の流し見も楽しめたわ。
でもオシャレ映画だと思ってると火傷するわよ。
じゃあどんな映画か、と聞かれたら私には今だによくわからない。
まず不思議なのは主人公・ワタナベに主体性が全くないこと。
学生運動は「くだらない」と一蹴し、音楽は好きだけど奏でるでもなく、女の子に呼ばれればどこへでも行く。
物語における主人公の主体性のなさは感情移入をしやすくするためであることが多いけど、ワタナベは観客の感情をすり抜けていくよう。
結局追い詰められる形で選択を迫られたワタナベは、2度目の喪失を知る。
2度の喪失はワタナベの選択とは関係のない純粋な喪失であることがもしかしたらこの映画の核なのかもしれないわ。
「大人になるよ」と言ったワタナベ。
まだそれを悲しみと、永遠に子供のままの親友と恋人の存在が妨げている。
大人とはなんなのか。
ワタナベのように心に大きな喪失があるままでは大人になれないのであれば、忘却に成功した者だけが大人なわけだけど、小説版の冒頭は37歳になったワタナベは心の痛みを思い出すところから始まるわ。
先に逝った人たちへの感傷を抱えてどう生きるのか。
それがその答えなのかもしれない。